好きなもの、好きなこと

好きを言葉にする。残念なアラサー。

ゆっくり向き合う

  このとてつもなくつまらなくて、大した内容も書いていないブログに足を運んでくださる方があれ以来たくさんいらっしゃるようだ。おそらく大半の方は知りたいことは何も得られず、がっかりしてそっとページを閉じるのだろう。本当に申し訳ない。期待はずれで。それでも私は主観を綴ろうと思う。自分の過去に書いた記事を読み返した時に、その瞬間は心がたくさんの好きな気持ちで満たされていて私はとても幸せだったんだと思い出せたから。どんなに辛くて悲しくても、今この瞬間を残しておくべきだと思うようになった。この気持ちを忘れないために。所詮自己満だしね。

 

  

 あるときスッと自分の中で落ちた気がした。自分の中で納得のいく解釈に辿り着いたときだった。恥ずかしながら冷静さを失った時に『直感的にわかりやすい〜のせいでを作らないで』とふたつ前の記事で言ってみた。しかし、悲しみを受け入れるには自分なりに理由を作りたくなるものだなと少し時間が経ってわかった。絶対に正しい答えなんて辿り着けないことはわかっているけれど、自分なりにこうなんだなと答えを用意することで受け入れるというのも一つの方法のようだ。ただし、自分が辿り着いた解釈を披露して人に共感してもらおうとしてはならないとも学んだ。時間をかけてそれぞれが作り出した答えは正しくもないし間違ってもいない。年齢や経験、感受性、距離感、そのときの熱量、これまでの思い出の大きさがそれぞれ異なるのだから、みんな違った答えを持っていて当然だ。答え合わせの必要はない。それぞれが大事に心にしまっておけばいい。

 

 

 YouTubeを介して知った彼の訃報をネットニュースで知った。もちろんコンサートという場で同じ空間を何度も共にしたのは事実だ。それでも画面越しに過ごした時間の方が断然多い。だからだろう、どんなに自分が納得のいく答えを用意したって未だに実感がわかない。受け入れたのではなく、想像の世界に目を向けているだけなのかもしれない。スッと落ちたのは気がしただけで、気のせいだった。結局のところ、向き合うのを避けて通り過ぎたのだろう。締切の迫る宿題を形式的に終わらせたときのように、何も理解せずとりあえず答えを用意しただけ。

 

 

 これから画面越しのお付き合いのみを続ければ現実を受け入れずに、あの時より前と同じ時間を過ごす感覚が得られるのだろう。けれどもこのままじゃダメな気がするんだ。それこそ、向き合い方も人それぞれだろう。私は時間をかけてでもきちんと事実と向き合いたい。ドームで現実を直視する日までに少しだけでも向き合いたい。でも焦らない。間に合わなくてもいい。ゆっくりと。