好きなもの、好きなこと

好きを言葉にする。残念なアラサー。

はじめての宗教勧誘

 29歳の秋は生まれて初めての経験をいくつもした貴重な季節となった。好きでもないし、好きにもなりたくないことだからブログのテーマにはそぐわないかもしれないけど、自分の記録用として書くことにした。

 

 

 まずは宗教勧誘から。

これまでインターホン越しの宗教勧誘なら何度か受けたことがあった。具体的にお話を聞いたことはないけれど、駅前の外国人に声をかけられらる勧誘も何度か経験したことはあった。

 

こんな程度のものじゃなくて、知らず知らずのうちにしっかりと自ら足を踏み入れてしまった。

 

あまり詳しく書くと、どの宗教か特定されてしまっていろいろと怖いのでとっても抽象的に書こうと思う。

 

 

きっかけは職場の同僚。とても魅力的で『この人と仲良くなりたい』と思って段々と距離を縮めていった。親しくなってプライベートで会うようにもなった。そんな時にある習い事をしているから是非一緒に行かないかと誘ってくれた。魅力的に感じる人に誘われたことが嬉しかったし、私はとりあえず何でも行ってみようと考えているので躊躇わずに参加してみることにした。

 

 習い事に行ってみると、個人指導だったようで同僚と私と先生の3人だけだった。先生と話してみると、様々なことに精通していて勉強熱心な方だった。この先生からたくさん学んで良い影響を受けているから、同僚は魅力ある人なのかなとも思った。その時、なぜか先生が私のフルネームを知っていることがなんだか不気味だった。同僚が伝えたに違いないだろうけれど、フルネームで名前で知る必要があるのか不思議だった。とにかく同僚はこの先生のことを心から信頼しているんだと感じた。と同時になぜそこまで信頼できるのか、習い事程度でそこまで先生を信頼できるのものなのか、何か他のことで繋がっているんじゃないかと疑いを持った。

 

 疑いを拭い去るために、習い事で耳にした単語をネットで少し調べてみた。すると簡単にとある宗教にたどり着いた。

 

 その後、違う先生から教えてもらう機会を設けてもらった。ネットで見た単語が次々と出てきて、疑いは確信へと変わった。

このまま先生に会い続けたらどっぷり宗教に浸かることになると思い、先生と会う機会を作らなくていいと同僚にお断りした。

 

 同僚と二人の先生に共通したのは聞き上手だった。私にたくさん話をさせて、私が興味関心をもつことの中で宗教に繋がることを探していてたのだなと後から気づいた。だから宗教の思想と間接的に繋がる分野を熱心に勉強していたのだ。そして私は宗教に間接的に繋がる分野に興味関心が高かったため、宗教に染まる素質があったらしいし、誘いやすかったようだ。

 

 同僚の人間的な魅力が宗教からくるものならいっそ私もそれに染まってみるのもいいのかなとか、この無信仰時代に何か熱心に信じられるものがあるのも羨ましいなとも考えたりもした。

そもそもどうして宗教って嫌われてしまうのだろうか。あんなに事あるごとに神様に頼むのに、無信仰ってどういうことなんだよと日頃考えもしないことを考えるいい機会になった。

それでも私は無信仰で生きようと思うし、都合よく神様に頼みごとをしようと思う。