好きなもの、好きなこと

好きを言葉にする。残念なアラサー。

ふぉえばーおいにー

 時間が経たないうちに残しておきたい気持ちを書いておこう。全然まとまらない。

 

 

 しっかり向き合って心の準備をして行くつもりだったのに、結局なにもできずに迎えた2/17。

決して自分の出番があるわけでもないのに、やたらに喉が乾くし、食べちゃうんだけど食欲は湧かないし、味を感じないし、とにかく怖かったし緊張していた。

すっかり目を背ける癖がついてしまったようで、行きの電車でも、昼食の待ち時間でも、フィギュアスケートを熱心に観戦した。

ジャンプが成功するかどうかのわかりやすい緊張感で、心の中にある本当の緊張感を誤魔化し続けた。

 

 公演が始まって何曲か聴いて、ここにあるべきはずの声や姿がなくて、これまで頭ではわかっていたんだけど、初めて耳が実感したようだった。

しばらくして耳が恋しがっていたじょんひょんの声が流れてきた。あぁこれだぁぁ〜!と耳が喜んだ。

けれども、あえて言葉を選ばずいうとCDなら家でも聞けるじゃんとも思った。音程なんていくらでも外していい。生の歌声、そのとき一回限りの歌声を聴きたい。息づかいを感じたい。

それなのに、そういう方法でしか、もう声を聞けない。

これがいないってことなんだなと実感した。

 

 もちろん、じょんひょんのことを思う時間、映像や歌声をみせてくれる時間に不満があるわけではない。

『みんな泣いていいんだよ』っていう時間を設けてくれたことで私もしっかり泣いた。

泣いたからって悲しい事実が変わるわけじゃないんだけど、日常生活を送るために必死に心の奥底にしまいこんでいた感情を徐ろに出して、みんなで痛みを共有する時間は意味あるものだったと思う。

 

  みんなの涙が1万トンに達したら奇跡が起きる…みたいなシステムがなんでこの世に存在しないんだろうって、無意味な考えを浮かべたりしてみた。

たとえこういったドラマみたいな奇跡が起きたとしても、彼の選択を尊重していないことになるんじゃないか。

また同じ結果になるんだったら、私たちはもう一度悲しむことになるのだから、そんなことは起こらない方がいいじゃないのか。

 たらればであれこれ想像してみても、結末は悲しいばかりで、とにかく、何もできないんだなと無力だと痛感した。

 

 帰り道、同行してくれた友人と、私たちは現実を受け入れる勇気があるかを確かめるために、ここへ来たんだねと話した。

ここへ来なければ思い出の時間を止めておいて、都合のいいところで記憶を留めておけるのに、ストイックにも来てしまった。

それでも、いい意味で気丈に振る舞っていない、感情を隠さない4人をみて、来てよかったなと思えた。

オニュさんじゃなくてイジンギさんを垣間見た気がした。アイドルとして流す美しい涙じゃなくて、ひとりの人間として流す暗い涙だった。

 私の愛してやまない、平和なシンボルしゃいにーさんが悲しみの中心にいることがまぎれもない現実だった。

現実を受け入れるのに必要な光景を見聞きした時間だった。勇気はないけど、努力はしたいと思った。

  

 人は生まれたからにはいつか死ぬ。でもそれは今じゃなかったと私は思う。そう。思ったのは、この私。

無責任にも、私にとって今は都合が悪いのだろう。じゃあ今じゃないなら、いつならいいんだと考える。

自分の興味関心が薄れたときだろうか。いや、いい時なんていつまでも訪れない。

けれども不老不死は存在しない。やがてその時は絶対にやって来る。神様の匙加減。自然の摂理には逆らえない。人生ってそんなもの。

それでも、少し欲張っていいなら、できるだけ長く一緒に彼らとともに年を取りたい。

少しでも長く彼らをみていきたい。

28

 まもなく28歳が終わろうとしている。私は早生まれだ。同級生のほとんどはこの2018年、平成30年に30歳を迎える。だから私もてっきり30歳になる気でいた。ところがまだ29歳になるところだったらしい。ただの勘違いだけれども少し得した気分だ。(4月生まれの友人いわくこれはとんでもない喧嘩をふっかけていることになるらしい…。ごめんね♡

 

 26歳になった時に30歳が近いことを自覚し、身構えた。26だろうと27だろうと30みたいなものだと思い続けていたからか、正直まだ30歳にならないのかと思う。その一方で誕生日を祝わなければ年齢を重ねないのではないかというよくわからない考えが生じて、できるだけ誕生日をアピールしないで静かに誕生日を過ごすようにしていた。年齢に前払いのシステムはないけれども、私は26歳になるときにまとめて30歳になった気すら起きていた。1分、1日、1ヶ月を積み重ねて1年を数えるのに、何年か分の年齢をまとめるなんて何と無意味な考えなんだと書いていて自分でも思う。お金のような感覚で年月を捉えてはいけない。

 

 28歳をあまり意識しないでいたけれども、せっかく28歳とお別れすることを意識したのでこの機会に28という数字について何か書いておこうと思う。

 

 28について何で何を調べたらいいのかわからないから、とりあえずネットで『28』と検索してみた。完全数というものらしい。一通り数学は習ったはずなのに全く知らなかった。完全数とは『自身の数を除いた正の約数の和に等しくなる自然数』のこと。28=1+2+4+7+14ということみたいだ。28の次の完全数は496なので人間の年齢として通過できる最後の完全数のようだ。途端に『28』に価値があるかのように思えてきた。

 

 28といえば、『28』というタイトルの曲を知っている。GONTITIさんの曲だ。この曲と出会ったのはじょんひょんのラジオだ。熱心なリスナーではなかったけれどもなかなか寝付けないときに聴いていた。MBCのアプリで聴いているとその日のラジオで流された曲目が表示される。何度か『28』を見かけた。同じ曲を頻繁にリクエストする人がいるのかと不思議に感じていた。曲こそ知らなかったけれども、GONTITIさんの存在は知っていた。そういえばこのようなInstrumentalを熱心に流すラジオではないぞと思い、いつどのタイミングでこの曲が流されるのかを調べてみた。何曜日かの、とあるコーナーの時のBGMとして流されていたとわかった。

 そして私はこの曲がなぜ『28』というタイトルなのか気になったので検索した。一番上に表示された答えによれば、《高校生の頃に好きだった人に28年ぶりに再会して過去について彼女に尋ねたらそんなことは流してくれといわれて、この28年間は何だったと愕然してできた曲》だそうだ。だからあんなに懐かしくて切なくて暖かい音がするんだなと合点がいった。

  この方が想い続けた年数分を私は生きたんだなと想像を巡らせてみたけれども、よくわからない感覚だった。オギャーと生まれたその日から間も無く迎える誕生日までの間、一途に想い続けたものって何かあるのだろうか。または今から56歳まで何か想い続けられるものってあるのだろうか。想い続けたからこそ生み出された音はとても心地よいものだ。どうか未来の自分に28年間想い続けている何かがありますように。

 

 

 節目でも何でもない、約30にまとめられてしまう28をあと少し、精一杯堪能しようと思う。

おひとりさまオンリーワン

 じりじりと迫ってきてたけどついにきてしまった。20代をともに振り返った大切な友人に彼氏ができた。集団の中でおひとりさまオンリーワンの称号を手に入れた。付き合っただけで結婚はまだでしょ?と思うかもしれないけど、相手方はかなりの優良物件でこれは一年経たないうちに結婚の話が出そうだ。なんてったって30がもうそこまできてるんだから、1日でも早く結婚したいと彼女は思っているに違いない。プロポーズされたらいつでも即座にイエスと答えられるよう発声練習してると思うもん。なんだろう、この喪失感。嬉しいことのはずなのに悲しいことと同じくらい胸が苦しい。こんなに短い間で極度に二度も締め付けられた胸はもう限界を超えていそうだ。そろそろ張りさけるのかな。なーんていえてるうちは大丈夫だろう。

 

 

 じゃあ私も頑張らなきゃとここでなれないのが私の残念なところだ。昔から結婚に憧れていないというと、負け犬の遠吠えのように思われてしまいがちだ。でも本当なんだよな。最近やっと子どもを可愛いと思えるようになったけど、人のために自分を犠牲にする自信はない。人間として絶対的に必要なものが私って欠如してるのかなと不安になる。結局は自分が一番可愛いんでしょといわれたら反論できない。まだ起きてもいない未来のことに誰も自信は持てないといわれたらそれまでだ。

 

 

 なんでこんなに生き辛いんだろう。少し道をそれるともう戻れないような社会が嫌い。みんな一緒とか普通はこうだとか大半はとかマジョリティに所属していれば安心安全の勝ち組みたいな空気が嫌だ。システム化された社会に違和感を持たずその中で上手く生き抜くノウハウがあればそこそこ成功できるってことこそ学校で教えてよ。そしたらみんながいう、普通の人生が送れたと思うんだよな。でもこれって全て環境のせいにして自分は悪くないって言い聞かせてるだけだよといわれそうだ。全くその通りだよ。環境に適応する努力が足りないんだろうなと嘆きたくなる。

 

 

 けーぽが好きだの、俳優さんがかっこいいだの言っているとまだ現実を見ずして生きているのかと思われることがある。さすがにもういい歳なんだから、恋愛対象として彼らを応援しているわけではないと断言したい。誤解を招きたくないから、最近では好きなことを表に出さないように、好きじゃないふりをしたりもしていた。だから好きをここへ書いてみたりもした。私の好きなものたちを原因のひとつにさせられたくはない。

 

 

 少し前に一人で生きていくための準備をするなら早いほうがいいのかな、と考えたこともあった。まずはこれから待ち受ける数々のダメージに耐え得る鋼のメンタルを手に入れることから始めたほうがよさそうだ。心を鍛えよう。マイノリティでも胸を張って生きてやる!!!

ゆっくり向き合う

  このとてつもなくつまらなくて、大した内容も書いていないブログに足を運んでくださる方があれ以来たくさんいらっしゃるようだ。おそらく大半の方は知りたいことは何も得られず、がっかりしてそっとページを閉じるのだろう。本当に申し訳ない。期待はずれで。それでも私は主観を綴ろうと思う。自分の過去に書いた記事を読み返した時に、その瞬間は心がたくさんの好きな気持ちで満たされていて私はとても幸せだったんだと思い出せたから。どんなに辛くて悲しくても、今この瞬間を残しておくべきだと思うようになった。この気持ちを忘れないために。所詮自己満だしね。

 

  

 あるときスッと自分の中で落ちた気がした。自分の中で納得のいく解釈に辿り着いたときだった。恥ずかしながら冷静さを失った時に『直感的にわかりやすい〜のせいでを作らないで』とふたつ前の記事で言ってみた。しかし、悲しみを受け入れるには自分なりに理由を作りたくなるものだなと少し時間が経ってわかった。絶対に正しい答えなんて辿り着けないことはわかっているけれど、自分なりにこうなんだなと答えを用意することで受け入れるというのも一つの方法のようだ。ただし、自分が辿り着いた解釈を披露して人に共感してもらおうとしてはならないとも学んだ。時間をかけてそれぞれが作り出した答えは正しくもないし間違ってもいない。年齢や経験、感受性、距離感、そのときの熱量、これまでの思い出の大きさがそれぞれ異なるのだから、みんな違った答えを持っていて当然だ。答え合わせの必要はない。それぞれが大事に心にしまっておけばいい。

 

 

 YouTubeを介して知った彼の訃報をネットニュースで知った。もちろんコンサートという場で同じ空間を何度も共にしたのは事実だ。それでも画面越しに過ごした時間の方が断然多い。だからだろう、どんなに自分が納得のいく答えを用意したって未だに実感がわかない。受け入れたのではなく、想像の世界に目を向けているだけなのかもしれない。スッと落ちたのは気がしただけで、気のせいだった。結局のところ、向き合うのを避けて通り過ぎたのだろう。締切の迫る宿題を形式的に終わらせたときのように、何も理解せずとりあえず答えを用意しただけ。

 

 

 これから画面越しのお付き合いのみを続ければ現実を受け入れずに、あの時より前と同じ時間を過ごす感覚が得られるのだろう。けれどもこのままじゃダメな気がするんだ。それこそ、向き合い方も人それぞれだろう。私は時間をかけてでもきちんと事実と向き合いたい。ドームで現実を直視する日までに少しだけでも向き合いたい。でも焦らない。間に合わなくてもいい。ゆっくりと。

 

音楽と言葉

  私はInstagram黒柳徹子さんをフォローしている。先日、初のテレビ女優になった経緯についての投稿があった。そのときに私はふと、二つのことを考えた。

 

  一つ目は いつから音楽は目で楽しむものになったんだろうということだ。テレビが普及してからであろう。曲と歌詞でも十分に音楽は表現出来るだろうに。歌っている人のビジュアルや衣装、ダンス、豪華な舞台装置が整ったときに現代の音楽は成立しているのだなと思った。大変だよね。かくいう私も耳よりも目で音楽を楽しんでることが多いんだろうなと気付かされた。

 

 二つ目はテレビがない時代はラジオや新聞から情報を得ていたのだなと思った。視覚的に捉えたものを言葉のみで伝えるのは難しいはずだ。それを可能にするには語彙力だったのだろう。

 今回の悲しい出来事があって、日本人を30年近くやっているはずなのに、日本語がネイティブなはずのに、自分の感情にふさわしい的確な言葉が見つからないことに気付かされた。これを言葉にできないというのだろうか。ただの知識不足なのだろうか。せっかく多彩な表現が可能な日本語なのだから見つけたいと思った。また彼からひとつ言葉の面白さを学んだ。学ぼう。探そう。

あえて薄着をする

 かつてないほど腫れ上がったまぶたなのに平静を装って普段と変わらないふりをしていつも通りを過ごしている。でも胸が不意に苦しくなる。もう何が悲しいかわからない。この気持ちを表現するにふさわしい言葉が見つからない。ただ涙が終わらない。

 

 彼をよく知らない人たちが大騒ぎしている。私だってよく知らないよ。見てきたのはほんの一部だったから。でも20代を彼らとともに過ごしたんだ。聖なる夜を彼氏じゃなくて彼らと何度も過ごしたんだ。

 

 何でもかんでも起きたことを知っている言葉やありふれた現象に当てはめようとしないでよ。そうやって意味のない名前をつけてカテゴライズすると安心するからって自分の知っている世界のひとつにしないでよ。

『なぜ』に必ずしも的確な理由なんてないこともある。簡単に一つに絞ろうとしないでよ。直感的にわかりやすい『〜のせいで』を作らないでよ。関係のない人たちが興味をそそられるような派手で下品な言葉を理由にしないでよ。

 後追い後追い言わないでほしいな。生きる人は生きるし後を追う人は追うんだよ。それほどの判断を誤る人はそんな誰が発したかわからない拡散希望された言葉で引き止められやしないんだから。しょうもない目立ちたい欲のためにこのことを使わないで。すぐに消してくれないかな。

  頼むからそっとしておいてくれないかな。ありふれた定型文を並べてることにすら気づいてないでしょ。たとえSNSで盛り上がってもとても局所的なことなんだよ。このご時世、趣味は多様化していてみんなが好き、みんなが気になることなんてないからさ。これまで知らなかった人が知らなくていいんだから。知らないままでいいから。予測変換で出てくるようなお悔やみ申し上げますならいらないから。それはただの文字の羅列でしかなくて言葉として機能していないから。彼はね、素敵な言葉を選んで美しく表現するのが上手な人なんだ。たとえ間違えたとしてもそれを素直に認めて直そうとする人なんだよ。だからこそ丁寧に言葉を選ばなきゃいけない。

 

 

 あえて薄着をする。寒さが身にしみる。そして私は実感する。生きてるんだって。

ついていけない若者言葉

 テレビやネットでたまにやっている【若者たちに流行っている◯◯ランキング】をのぞいてみると、『そんなのわたしの周りでは流行ってない』なんてことがよくある。これを友人と話していてふと気がついた。そう、私たちはもう世間一般でいう【若者】ではないのだ。多分あれは高校生〜大学生までのことをいっていたのだ。ひとまわり近く年齢が違えばそりゃあ流行ってるものなんて大きく違うに決まっている。十分若いつもりでいたのに知らず知らずのうちに【若者】という枠組みから遠く離れたところに来てしまったようだ。

 

 他のところでももう【若者】ではないのだなと感じることがある。それはTwitterだ。 私はそこまでヘビーユーザーではないが、趣味の情報収集がてら時間があるときにちらちらとのぞいている。少しご無沙汰していたせいか久しぶりにTwitterをのぞいてみると、最近のつぶやきで目にするものに気になる言い回しがある。まだ他にもあるかもしれないが、よく見かける4つを私なりに解釈・評価してみた。

(※個人の意見です。若者についていけない嫉妬心を全面に出しております。何様だって話です。

 

『え、まって…』という書き出し

なにをそんなに誰に待って欲しいんだろうと思うくらいやたら『まって』といっている。かなりの頻度でまっての前に『え』が入ってるようだ。自分の心の整理をしてから書き込めばこの『まって』は必要なくなるだろうし、文字数が限られているのに3文字〜6文字を無駄に消費するのはもったないなと思う。けれどもこれをつけると焦燥感と興奮が伝わるのはちょっとわかる気がする。

 

『全私が泣いた、全私が死んだ』

これは映画の宣伝でよくみる『全米が泣いた』からきてるのかなぁ。私が果たして複数あるのだろうかと疑問。もしかしたらいま流行の細胞レベルの話をしているのだろうか。ここから派生して【全】のあとに固有名詞をつける使い方もあるようだ。『全◯◯に感謝』といったように使うらしい。けれども相当感動したりショックだったということが短文に凝縮されているから、ものに出来れば分かりやすい表現なのかもしれない。

 

最&高

最高と入力した後にカーソルを最と高の間に持ってきて&をいれるのって大変だなと初めて入力して気づいたのであった。たしかきゃりーぱみゅぱみゅさんがこのタイトルの曲を歌っていたような(不確かな情報)。もともと流行っていた言葉が歌になったのか、歌が流行って言葉が日常使いされるようになったのか、どちらだろうか。最高よりももっと上の状態を表しているのだろうか。やばいに変わる言葉なのだろうか。疑問ばかりが浮かんで全然使いこなせなさそうだ。

 

やたら【み】をつける

(例1)やばみ、つらみ、嬉しみ

『明日テスト。つらみ』のように文末で見かける場合もあるし、名詞としても使われいて『嬉しみが伝わる』といったように使われている。これらは形容詞を名詞化しているのだろうか。たしかに『楽しい』『悲しい』の場合では『楽しみ』『悲しみ』という変化は正しい。ところが他の形容詞では【み】は使われない。じゃあ使っちゃえということなのかな。

(例2)古代ローマみがある、CMみがある

この場合は『〜のようだ、〜に似ている』という意味を表している。『面白みがある』といった使い方があるから応用効かせちゃおうってことなのだろうか。

 

とにかく【み】をつければ、今の若者みある使い方になるのだろう、嬉しみ!!!

 

 

 書き言葉の言い回しは少し解釈できたつもりでいるが、これらを使いこなすことは難しいようだ。そうだった…自分はもう【若者】ではなかったのだ。きっと【若者】でくくられていたときは、年上の方々には理解されないような新しい言い回しを無意識に使いこなしていたのだろう。

今思えば、

(笑)→笑→www

へ変化したのを見届けた世代であるのかもしれない。気づかないだけで他にもたくさんの新しい言葉の変化を現役で見届けていたのかもしれない。

 

 新しい言い回しを使いこなせなくてもいいから、せめて相手が言おうとすることを理解できるようにはなりたいと思う。そうしなければ言葉じゃないから。【若者】から外されてしまったけど、新しいことを知ってはいけないわけではない。だからこそ変化についていきたいと思う。頑張ろう、アラサー。